WEB担当です。
本当に伝わるイベントってなにか?
今日はそんなことを樋口製材で考えてました。
社長「なんで外ばっか眺めてるで?」
自分「いや、あの板見てると落ち着くなって」
社長「はっはっはっ」
樋口製材の事務所からの眺め
樋口製材のWEB担当をやってきて最近思うのは、ここで行われていることは地場の挽きであり、森を使う出発点であり、長年の勘と地道な手作業によって成り立っているということでした。
大げさな言い方かもしれませんが、高台に登って見えるこの風景が何を根拠に成り立ってきたか、人の想いがどうこうとかじゃなくて、単純に物質・材料のフローの話として、森で育ったものがそれぞれ覚えのある者たちの手によって、驚くべきレベルの勘と感覚によってすみやかに加工されていくということ。そのプロセスそのものが、この土地の、韮崎の風景を作ってきたということを理屈抜きに分かった気になるときがあります。
だからなに?って感じですが、自分がここのWEB担当を始めた頃は「ひのき、いい匂いだなー」、「台車ノコ、こわいなー」という程度の感想でしたが、ここで行われていることは、お金をころがすシステムの枠の外で、貨幣制度のなかった縄文時代前期から行われていた物質の変換のことなんだ、と勝手に分かった気になります。
それと、これはもっと感覚的なことなのですが、社長が台車に乗って丸太を挽いているとき、それは大けがと隣り合わせの抜き差しならないシーンですが、社長と木との間に「一体感」のようなものを感じることがときどきあります。ありがちな擬人化ですが、木が社長の手によって挽かれることを望んでいるような心象が出てくることがあります。でも別の日のあるときは、製材を待つ丸太の、あるいは製材された板たちの「もの悲しさ」のようなものを感じたこともあります。もちろんこんなのは自分のまったくの主観に過ぎませんが、木が嫌がってる、嫌がってない、の相反する感覚が不思議と自分のそばにありました。
それはなんでだろう?と考えたら、たぶんそれは、ただならぬ総量の引き受け、のせいかもと思いました。木はその根から切り離され、数景個の細胞の呼吸がいっぺんに止まった。長年の記憶、風や日差しの記憶、鳥や獣の鳴き声の記憶が消えてなくなった。
そんな木を前にして憮然たる立ち振る舞いの社長。引き受けようとする姿勢。それが、木が嫌がってる、嫌がっていないの感覚をもたらしたのかもしれません。
この感覚、どう役立つか知りませんが、これをうまく伝えられるようなイベントができないのかなと考えていました。中途半端なイベントはしたくないし、自分たちの都合をただ押しつけるようなイベントもしたくない。教育的なことを説くつもりもないのですが、何かそういう恐れ多い部分、畏敬の部分を出せたら、面白いイベントになるんじゃないかな、と思いました。どうやればいいか、分かりませんが(笑)。
アイディアの種を探しに樋口製材の場内を一周(写真が下にあります)。そして漠然と、「目の前でヒノキがすぱーん」と「挽き立てを嗅ぐ」のイメージが湧きました。
今後のイベント企画にご期待ください。やらないかもしれませんが(-_-)。
「表出すべきストーリーがここにはたしかにある。でもどう表出すればいいか分からない・・・」
WEB担当
イベントアイディアを求めて樋口製材の場内を一周したときに撮った写真 ↓
丸太に食い込む斧
二つに分かれた杉材
イベント案を練ってたとき
ドアの隙間から見えた現場
そのドアを開けて出てすぐ左手にあるひのきのおがくず(プレーナー屑)
手に取ると強烈なひのきの香り。おお、すごい。
製材台車の材止め
杉材、半分。
パワーリフトで材を運ぶ樋口社長。
パワーリフトの先端。
重ねられた杉材。
台車ノコの替え刃。
見とれてもう1枚。
台車の操作位置からの風景。
使い込まれた台車操作盤。
丸太を移動させる台の軸部分。
製材を待つ丸太。
丸太による長年の負荷により曲がった鋼鉄。